皆様はカラヴァッジョという芸術家をご存じでしょうか?
本名はミケランジェロ・メリージ。少年時代に過ごした村の名前にちなんでカラヴァッジョと呼ばれるようになったそうです。
彼の作品の一番の特徴は、光と影のコントラスト。その強い陰影により作品をドラマティックに仕上げる手法は、それまでになかった作風であったため、当時の若い画家たちに衝撃を与え、この作風を研究し、真似をしようとするカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれる追随者が多く生まれました。また、宗教画で人物を描く際にも、理想化をせずにありのままを描くその斬新な表現に、たびたび物議を醸したこともあったそうです。
カラヴァッジョが、近現代の西洋絵画に果たした役割は非常に大きいと言われ、その功績の象徴として、イタリアでユーロ紙幣が採用される前までは、10万リラ紙幣にカラヴァッジョの肖像が採用されていました。そんなイタリア人画家、カラヴァッジョがどのようにマルタに辿り着いたのか。順風満帆そうなカラヴァッジョですが、なかなか波乱万丈な人生を歩んだといわれています。
カラヴァッジョの生涯
ミラノで画家の修行を積んだのち、ローマへと渡ったカラヴァッジョは、数年のうちに教会などから制作依頼を受けるようになり、上流階級のパトロンも付いたことで、若くして富と名声を手に入れました。しかし、カラヴァッジョは非常に気性が荒く、器物破損や傷害など喧嘩の絶えない日々を繰り返し、警察沙汰になることも少なくなかったそうです。そして、1606年、カラヴァッジョは賭けをめぐる喧嘩でとうとう殺人を犯してしまいます。ローマから逃亡したカラヴァッジョがパトロンの援助を得てたどり着いたのがマルタでした。当時のマルタの聖ヨハネ騎士団長ド・ヴィニャクールは有名画家のカラヴァッジョを騎士団の一員として歓待しました。
しかし、マルタでもまた傷害事件を起こし投獄されるものの、脱獄。シチリアへ逃亡しました。わずか2年も経たない内に、マルタを去ったことになります。最終的には、シチリア、ナポリと点々とし、ローマへ向かう途中に38歳で病死したと言われています。
現在、マルタで見られるカラヴァッジョの作品は「洗礼者聖ヨハネの斬首」と「執筆する聖ヒエロニムス」の2作品です。
洗礼者聖ヨハネの斬首
カラヴァッジョ作品の中でも最高傑作と言われている作品です。
神の子イエスに洗礼を施し、旧約聖書における最後の預言者であり、騎士団の守護神でもあるヨハネがヘロデ王の命令により斬首されるシーンを切り取った作品。聖書の一場面に、16世紀当時の牢獄を描くなどのカラヴァッジョらしい斬新な試みが見られます。また、斬首された洗礼者聖ヨハネの首から流れる血で、本名のサインを記してあることもこの絵画にのみ見られる大きな特徴の一つです。皮肉なことに、マルタで罪を犯したカラヴァッジョは、自ら描いたこの斬首をテーマにした絵画の前で、斬首刑を言い渡されたというエピソードも残されています。
執筆する聖ヒエロニムス
騎士団ナポリ支団長のイッポリート・マラスピーナのために描かれた人物画で、右下にイッポリートの紋章を確認できます。以前は、大聖堂のイタリアの礼拝堂に飾られていましたが、現在は、「洗礼者聖ヨハネの斬首」と同じく、聖ヨハネ大聖堂のオラトリオ(集会祈祷所)に掲げられています。マラスピーナは、カラヴァッジョがナポリからマルタへと逃亡する際に同じ船に乗り合わせていた人物と言われています。しかし、本作の聖ヒエロニムスのモデルは、イッポリートではなく、当時の騎士団長でカラヴァッジョを歓待したヴィニャクールであるという説もあります。
忘れてはいけないもう一人の画家・マティア・プレッティ
ここまでカラヴァッジョの話ばかりになってしまいましたが、もう一人、マルタ芸術を語る上で外せない人物がいます。それが、聖ヨハネ大聖堂の天井画を描いたマティア・プレッティです。カラヴァッジョ作品に大きな影響を受けたマティアは、カラヴァッジョと同じく聖ヨハネ騎士団に入団。生涯の大半をマルタで過ごし、多くの作品をマルタ内に残しました。バレッタ内だけでなく、スリーシティーズの聖ローレンス教会や、イムディーナ大聖堂などの祭壇画も手掛けているので、マティアの作品巡りをしてみるのも素敵かもしれません。